患者から患者さんへのメッセージそれぞれに体験されたリハビリ訓練のこと、利用して便利だったものやサービスやサークル等の紹介など、患者さん同士の情報交換の場を目指すページです。新たな訓練や制度を利用しようと思ってはいても、いざとなると様子がわからなくて不安と感じておられる方、ここにある先人の声を安心材料としてください。そして今度は自分が体験した内容を、同じように不安に思われている方にメッセージとして伝えていただければ幸いです。メッセージは常に受け付けています。ロービジョンルーム、またはtanaka@eye-center.org, nishiwaki@eye-center.orgまでご連絡ください。
この文章に対するご感想なども受け付けています。
<アイウエオ順>
愛沢法子さん(40代女性、網膜色素変性症、地域での活動や音楽活動など充実した生活の紹介)
相原秋子さん(30代女性、糖尿病網膜症で失明、リハビリ施設での訓練を開始するまでのお話)
上原文男さん(70代男性、武蔵野市のレクレーションサークル「いろりの会」の紹介)(ビデオ)
斎信行さん(20代男性、視力は0と0.2/視野は半分くらいに狭窄、糖尿病網膜症(糖尿病歴は20年)、就職に向けて数年前にパソコンを使った事務処理技術を習得されたときのお話)
志波隆さん(30代男性、障害者手帳5級2種、緑内障、国リハで按摩・はり・灸の資格取得の勉強をされたときの話)
杉田洋子さん(40代女性、糖尿病網膜症で失明、国リハでの訓練のお話やこれから挑戦しようとしていることなどのお話、インタビュー形式です)
道口由美子さん(40代女性、障害者手帳2級、網膜色素変性症、病気のことを知った20代のころから現在までの様々な体験など盛りだくさんのお話。白杖への抵抗感や家族との関係について、地域の活動と自分の役割についてのお考えなどのお話も。)
橋本利之さん(40代男性、障害者手帳2級、障害者スポーツ指導員講習会に参加したときの記録。)
1.姫としもべたちというバンド活動(もちろん私が姫でボーカルとフルートとギター) しもべはふたり。リードギターとキーボード
2.フリーフライト さおり織りを中心に視覚障害の仲間とパタパタやってます。
3.障害者における社会教育について
4.指点字サークル 盲聾者の方達との交流(触手話も学べます)
5.ちょうふ 市民・ボランティア活動センターの出前講座スタッフ(点字、手引きの 手法の講師)
という具合に活動しています。もし私が障害者でなかったらこのような生活はなかったのかなとおもいます。いつもみんなに話す事です。「障害があるから大変なんじゃないんです。人として生まれてきた事が大変なんです。障害の有無にかかわらず、あきらめない! まけない! それが大事なんです。確かに眼が不自由なのは不便です。大変です。つらいです。でも障害がなかったら不便な事はないのでしょうか?大変じゃないのでしょうか?つらい事ってないのでしょyか?不便をどう便利に変えるかって考えるって楽しいですよ。大変な事、つらい事に立ち向かう勇気が持てた時、そんな自分がいとおしいと思います。だから私はあきらめない! まけない!」って。
もし、こんな私の活動に興味を持たれた方は杏林のロービジョンルームを通してご連絡ください。
「ジェット機の爆音とともに」
2001年3月
時間的な流れは、以下のとおりです。
訓練は休憩を含めて1時間きざみですが、1日6時間の訓練は週1回程度です。空いた時間に洗濯や居室掃除、入浴をします。部屋は4人用ですが、満員になることは、ありませんでした。クラブ活動に参加することもできます。
大きく変わりました。見えなくなっても、何もできなくなったのではないと思えるようになりました。見えない度合いは さまざまですが、生活上の工夫、体験、情報交換などができたことで、自分を取り戻せた、という気がします。友達という財産を得たことが、最大の収穫でした。
パソコンをモット勉強したいです。機械音痴のわたしが、見えているときにも出来なかったことを、音声だけで、今、出来るようになっているのが夢のようです。ひとつ出来るようになると、数倍わからないことが出てきて、それを一つ一つクリアしていくのが、面白くてたまらない。この先、どこまで出来るようになれるのか、楽しみでもあります。
見えていた頃に、これほど夢中になったものは、「本」と「星」だけです。
5 眼科に通われている患者さんにメッセージがあったらお願いします。
見えないよりは、見えたほうが良いです。いくらかでも見える人は、それを守る努力をしてください。でも、万一見えなくなってしまっても、何も出来なくなるわけじゃありません。この世の終わりでもありません。助けようとしてくれる人に、必ず会えます。だから、一人で家に閉じこもらないでください。
わたしと メールを交換しませんか?
私がこの病気とであったのは、21才の時でもうかれこれ25,26年この病気とつきあっています。それまで、私は、いわゆる近視で眼鏡は学校での授業中だけかけていた程度で、五体満足と自他共におもってました。ところが、私が網膜色素変性症といわれたきっかけは、21才のある夜でした。母と外出からの帰りで、夜8時ごろだったと思います。家の門のカギをあけてはいろうとするのに、私は無意識に手探りをしてカギの場所をさがしていたのです。横にいた母は、一発でわかる明るさがあったのに、、、。其の様子をみた母が、私が夜盲症のようだから、お医者様にみていただいてビタミン剤を処方していただいてくるようにと言われました。そこで、私は次の日軽い気持ちで、かかりつけのお医者様に行ったのです。その医者とは、私の住んでいた地方都市の県庁所在地では結構有名な眼科でした。とにかく、私は夜盲症だと思って言っただけなのに、暗室で眼底をみたり、視野の検査をしたり、今まで、眼科にきても入ったことのない部屋へ連れていかれたりでした。結局最後に先生の診察をうけて、そこで網膜色素変性症といわれました。これが、ドラマだったらきっと衝撃のジャジャジャーんと音楽でなるのでしょうが、、。
ここは単なる診察結果の報告だったようなので、たんたんとこの病気の症状、難病である事、治療法はない事、まれにアダプチノールが効く事など説明されただけでした。。でも先ほどもお話しましたが、難病と急に言われてもピンとこなく、ただ耳障りわるく残った言葉「将来失明するかもしれません」という言葉と、「ご両親は、いとこ同士の結婚じゃありませんか?」「親戚に見えない人いませんか?」という言葉でした。とにかく、そこでは、薬を飲んで定期的に診察を受けるようにいわれ帰宅しました。
家にかえって医者に言われた事を両親に話すと母はただ無言で聞くばかり、父は、とても憤慨して、「そんなはずはない。1件の医者の判断では信じられない」と言って、「順天堂大学出身の医者にみてもらわなくては」、と言って、父の知り合いの医者を紹介してもらって、再度診察をうける事となったのです。私は今でも父がこんなに激怒したのは後にも先にもこれ一回です。もっとも、父は、この1週間後に交通事故にあって即死してしまったのですが、、。ちょっと蛇足でしたね。
そんなこんなで、わたしと網膜色素変性症とはこんな形で出会ったのでした。でも、病名のレッテルははられても明日から急になんの変化がおきたわけではないので、それから、ひたすらこの病気は私たち家族の胸のうちにおさめ、ひたすら平静にとりつくろって20年は隠しとうしてきました。それなりに私自信の中では整理をして見えるうちに行きたい所は行っておこうとか仕事や金銭面での組み立てをたてていたつもりです。なんせ、この病気、ちょっと夜盲を注意して、目をきょろきょろさせていればどうにか普通にこの20年やってこられましたから。30歳から35歳の頃は、眼の調子も自分ではすすんでいるなあとは全然思えなかったし、仕事も順調で、プライベートでもうまくいっていたので。私の病気は実は他の病名で、見えるようになるのでは、、とまで思いました。
どこで診察をうけた時か忘れましたが、40歳位をさかいにすすみますよ。という事を聞いた事があります。そうです。私は30代後半で2回お産をしました。お産をすると進むという話もよく聞きます。そんなこんなで40歳を2,3年す過ぎた頃から、本当の網膜色素変性症とのお付き合いが始まったように思います。
それからの話は 障害者手帳を取得しての所でお話する事とします。
難病、眼の病気と言うとすぐに順天堂、慶応東大と大学病院の名前があがりますが、私はこれに固執する事はないと思います。確かに、大きな病気ですし、専門の先生にみていただいていないと不安というのもあります。でも、網膜色素変性症と診断を受けて、病名を納得したら、そんなに時間かけて遠くまで行くのはちょっと無駄かなあと思います。はっきりいって、この病気日進月歩で治療法がかわるわけでなし、網膜に権ある先生でもそんなにこの病気治療に力が入っているとは思えないからです。もし、お医者さまがこれを読んで誤りがあったら教えてください。今、注目されているのは、遺伝子治療と言われていますが、まだまだ、人間に治療するには、時間がかかりそうですもの。遺伝子治療のなかでもやっぱり、生命にかかわる病気の方が優先されるし研究費もつきますよね。ちょっとひがみかな。そんな事よりも、私がここで言いたいのは、自分が安全で、安心して通院できる病院をもっている事の方が大切なんじゃないかなあっていう事なんです。
私は数年前にここに引越してきたときどこの眼科にしようかなあと、悩みました。至誠会、慈恵、杏林とある中で、至誠会は女の先生なので、ちょっと気持ちが通じるかなあと思ったのです。ところがこれは失敗でした。女の先生とかいう前に、病気の内容に対するデリカシーが全然なく私の心はずたずたにされました。
私は、さっさと紹介状を書いてもらって、次に通院しやすい杏林にきました。最初の主治医の先生は、かなり事務的な対応でちょっと不満はあったものの、至誠会の先生よりはましかなあと思っていました。ところが、この先生がアメリカに留学してしまったのですが、其の時、私を継ぎの先生に引き継いでくれませんでした。これには、かなり、ショックをうけたのですが、もう他の病院に行ってもだいたいこんな扱いをされる病気なんだと思い半ばあきらめて、フリーで今の先生に診察していただいたのです。
ところが今度の先生は、とてもハートのある先生でした。別に今までの先生と診察方法が違うわけではないのです。でも、ちょっとした、配慮がみられて、とても嬉しくなりました。ちょうど見えなくなってくる事にとても不安を感じてきて、何かにすがりたい気持ちでしたので、地獄で仏にあったようなものでした。ロービジョンの存在を教えてくれたのも、この先生でした。
蛇足ですが、最近は診察の時常にロービジョンはどうですか?とふるんです。
そんなわけで、私が見えなくなる事への不安にカウンセリングを求めた時に紹介されたのが、なぜか、このロービジョンルームでした。ここは、心のケアーというよりか、物理的にこんなもの、拡大読書器を使うと新聞が読めるよ。とか、こんな色の遮光レンズがあるよ。とか拡大鏡の紹介でした。でも、私にとって見る物全てが始めての体験で、へえー、こんなものがあるんだあ。とただただ、感心して帰ってきた記憶があります。
でも、このとき、嬉しかったのは、医者と患者の上下関係の診察時間の他に、心を開いて会話できるスペースを知った事でした。それから、頻繁にロービジョンの部屋におしかけて、いろいろな情報を教えていただきました。パソコンの事、お料理関係のレシピ、便利グッズ、白杖指導、お化粧講習会、お料理講習会などなど、私がこんな事したいと投げかけると、すぐに反応してくれて嬉しかったです。そして、与えられるだけでなく室長の田中さんと西脇さんと互いに助け合ってきたような気がします。ちょっと偉そうですね。失礼。
あそうそう、今まで同じ病気の人は、3000人から4000人に一人の割合で存在する事は知っていましたが具体的にこの人といって会った事はここで初めてでした。後の項目で私が調布の福祉センターに出入りするきっかけとなった同じ病気の同年代の方を紹介していただいたのもこのロービジョンです。今日、こんなに私がアクテイブに活動できているのもこの人との出会いがあったからです。
もっとロービジョンの活動内容は、きっと他のところで詳しく紹介があると思われますので、そちらで確認ください。
サブタイトル:なかなか使いこなせない私
私が、視覚障害者用のパソコンを知ったのも、ロービジョンに出入りしてまもない頃でした。
ある時、田中さんが私にこれからは、パソコンの時代ですよと言うんです。でも其の話を聞いた時は、数年前で、ウィンドウズ95が出てきた頃でした。少しずつ家庭にパソコンが普及してきたものの、まだこの話にはのり気ではありませんでした。なぜなら、そのころ、家には1台パソコンはありましたが、やたら場所をとって、邪魔なものとしか思っていなかったからです。第一、キーボードの文字も見えないし、またこれから新しい事を覚えるのもめんどうと思ったからです。でも、そういう思いの私を横目に田中さんは、パソコンをカチャカチャと操作してほら、こうやると新聞だって読めるし、こうやると、メールといってお友達と手紙のやりとりができるのよー。と教えてくれました。
でも、どうやってこれを動かすのかさっぱり見当もつかずただただ眺めていると田中さんは、やつぎばやに、これは特別のソフトが入っていて音声で、画面を読んでくれるし、キーボードの文字も教えてくれるんですよ。と説明してくれました。こうやると画面の文字も拡大できるし、画面の背景の色も見やすくできるのよ。とデモンストレーションしてくれました。私は、後から後から変化していく画面をみて、おうう、これはすばらしい。と感動した覚えがあります。そこで、田中さんは、つかさず、私に1台のノートパソコンをかしてくれたのです。とにかくお家で、触ってみてください、といって。
さて家に持ち帰ってみたものの、壊してはいけないという気持ちが先にたってしばらくバックにいれたまましまっておきました。1か月がすぎた頃、そろそろロービジョンに行く日が近づき恐る恐るパソコンを出して触ってみました。すると、案の定パソコンはすぐ動かなくなってしまったのです。ここからが、私とパソコンの二人三脚の始まりになったのです。
それから私は、やっぱり自分のパソコンを持たないと心置きなく触れないと思い買いもとめました。そして、週1ノペースでロービジョンへ通い、いろいろ教えていただきました。そこでは、かなり知識は得たのですが、やっぱり、私の能力ではうまく使いこなせるようにはなりませんでした。いろいろ考えた末やっぱり個人指導が必要だなあと感じ良心的なパソコンの先生を紹介してもらって半年くらい通いました。
現在では、まがりなりにも、メールのやりとりをしインターネットで情報検索をし、新聞も読み、テレビのお料理番組をパソコンで動画でみたり、ネットショッピングを眺めたりとできるようになりました。
今思う事は、あの時無理してでもパソコン買ってよかったなあっていうことです。こんなに生活の中にパソコンが入り込むとは思っていませんでしたから。
あそうそう、私が、こんなにアクティブになれたのは、パソコンでの情報特にメーリングリストの存在です。詳しいメーリングリストについては田中さんに答えていただくとして、私はこのメーリングリストからいろいろな情報だけでなく、パワーをもらいました。そして、いきいきと前向きに生活していくカテになっているのも事実なのです。
私は、現在2級の障害者手帳を持っていますが、これを取得したのは、3年半前の事です。とにかく、これが生まれて初めてだったので、手帳を手にして嬉しいという気持ちはなくただただとまどうばかりでした。
市役所の障害福祉課の窓口で手帳をいただく時にいろいろ利用できる制度の説明を聞きながら、心の中でこれは必要ないとか、とにかく聞いておこうという気持ちだけでした。最後にその係りの人から白杖を持って行きますか?と言われた時は、声をあらだてて、そんなもの今日はいりません。といって帰ってきた覚えがあります。まだそのころは、一人でどうにか動けましたから。
そんなわけで、この手帳を必要としたのは、遮光眼鏡を購入する時だけでした。ガイドヘルパーさんの利用も二の足を踏んでいる状態でした。タクシー券も病院以外は使えませんでした。そんな期間が1年くらい続いて最近ですよ。やっと自分のニーズでガイドさんを利用したり、バスに乗るとき手帳の提示して半額でのるようになったのは、、。
それには、この間に、私の視力がコンスタントに落ちてガイドさんがいないとうまく動けない状態になってきたという理由もありますが。でも人間は、自分で納得するまではなかなかふんぎりはつきませんよね。
そうそう私が福祉センターに出入りするようになってだいぶ気持ちの整理ができてきたと思います。そこには、私より少しだけ早くいろいろ経験して、乗り越えてきた人たちがいましたから。其の人たちと話をする事で、かなり明るくなれましたし、自分の価値観の再認識の場にもなったような気がします。
そんなわけで、手帳をいただくときも、白杖を拒否した私ですから、。今現在何処にでも白杖ですいすいというわけではありません。でも、白杖は、自分を守ってくれる事、自分の道先案内人になってくれるもので、とても重要なものだと思っています。ですから、田中さんの所で、都盲協(東京都盲人福祉協会)の人から指導をうけました。また都身障(東京都身体障害者福祉センター)の人にも歩行訓練をうけました。従って、一応使い方はわかっているつもりです。でもギリギリの危険を感じる所でないと白杖は出せません。つまり、一人で電車に乗って出かける時ぐらいです。どうしても家の周り半径200メートルくらいは白杖はだせませんね。ハハハ
じゃあどうやって歩いているのか?という疑問がでると思うんですが、ガイドさんがいない時は、私の子供がガイド役なんです。結構年長の下の子でもきちんと教えてくれて安心なんです。でもいつまでもこんなやり方だけでは無理がくる時があると思うので、徐々にに単独歩行を取得しなければいけないですよね。。
悪あがきに聞こえるかもしれませんが、どうしてもなるべく白杖を使わないで、どんどん外に出て行きたい気持ちがあるもので、国土交通省が中心になって開発しているITS歩行者誘導システムプロジェクトの勉強会に参加してます。
2,3年後には白杖だけでなくハイテクの子機を持って歩けば、目的地までスイスイというのも夢じゃないかも、、、。
ロービジョンとの出会いのところでもちょっとお話させていただきましたが私が始めて同じ病の仲間の紹介を希望したときにたまたまであったのがこれからお話する人です。
彼女は私と年齢もちかく同じ町に住む人です。障害の程度は私よりもすすんでいて確か、1級だったとおもうんですが。彼女は、とても上手に福祉制度を勉強し、利用して全然不自由さを感じさせない人なのです。とても明るくふるまい、前向きなひとで私がちょっとこまったことがあって、こんなときにはどうしてますか?とたずねるとていねいに時間をかけておしえてくれたものでした。ある時、福祉センターでこんなことをしているので、遊びにきてみてね。とさそわれました。当時、彼女は、生活支援事業というところに所属し生活相談員として、いろいろなことをいっきにひきうけてやっていました。視覚だけでなく聴覚、肢体不自由内部障害、高次機能障害と障害をこえた仲間と共にいきていくための活動でした。私はとてもおもしろそうだなあという印象をうけた記憶があります。そうこうするうちに、私もここに首をつっこんてしまったというわけなのです。
現在私は生活支援事業の当事者相談員などという名前をもらって非常勤パートのような位置づけで参加してます。ちなみに今年度の私が担当した活動内容はというと、
中途視覚障害者講習会
・歩行訓練 --- 白杖を正しくつかって外を歩く、とか室内の安全な移動の仕方とかガイドヘルパーさんと歩くときのポイントなど
・お料理講習会 --- 電子レンジをつかって安全に簡単にお料理を作るとか、使いやすい便利な調理器具、電気製品などの紹介
・バスツアー --- 日本点字図書館、水道橋にあるセントラルプラザへの訪問
私は企画、運営を担当しました。参加者は市報でつのります。講師はそれぞれ専門の方をおよびしてます。
あれあれ、このネタどこかできいたことありませんか?そうなんです。ロービジョンルームでおそわってきたものばかりなんです。でも、いいかえれば、私がこの間必要としてきた情報ですし、私はたまたま杏林大学のロービジョンを利用できたからラッキーであっただけで、地域のなかでは、なかなか知る手段がなく苦労している人がおおいだろうなあー
と、おもうんです。ロービジョンは基本的には杏林にかかっている患者さんが対象ですものね。そうなると、私が地域に普及するっきゃないとおもったのですが。田中さん。まちがっていませんよね。もしまずいようでしたらコメントください。
でも、手前みそでもうしわけないのですが、参加してくれた人にはとても好評で、リクエストがはいってしまったんです。急遽2月にお料理講習会パート2を開催することになってしまったんです。
この他にも上手にホームヘルプサービスを受けるには、とか利用できる制度の紹介など、の企画をしました。でも、まだまだ、私は当事者としての興味の範囲をぬけでていませんが、かえって、この新鮮さって必要だと信じています。
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先日、上の子(小3)が学校から帰ってきて今日は手話ダンスをおそわったよ、といって得意げに覚えたての小さな世界をうたいながらおどってくれました。
そして、私にもこうやってやるんだよと手をとっておしえてくれるんです。こうやれば、ママも耳の不自由な人ともはなせるでしょう、、。といって、、。でも、私は、心の中では眼がみえないんだから相手からの手話がよみとれないじゃないか、と思いつつもちょっとほほえましく暖かい気持ちになっていました。
ところが、上の子がなにげにやっぱり耳が不自由だとカワイソウだよね、、。というんです。私はすっかりあたたかいきもちになっていたのに、この言葉でいっきにさめてしまいました。わが子にしてもかわいそうという言葉がはじめにでるんですもの、、。ショック
私は間髪をいれずにじゃあママもかわいそうなんだね。と聞くと、上の子はなんのとりつくろいもなくママはカワイソウではないというんです。実際、わが子は私がみえないことで大変だなあとは切実にかんじてます。でも、あまりにもみじかすぎてカワイソウなんてあわれんでいる暇はないので、ママはかわいそうじゃないというのは、本音だとおもいます。
カワイソウということばにこんなにもわたしが敏感になるにわ理由があるんです。つまりカワイソウということは、つまり相手を一段聞こえない、見えないということでみさげていることになるからです。だって、本人は、聞こえない、見えないことで大変だし苦労しているのは事実だけれど、けっしてカワイソウなんていってあわれんでほしくないからです。
ここでちょっと見方をかえてみますね。
たとえば、上の子のクラスに英語しかしゃべれないアメリカ人が転校してきたとします。
きっと最初は、お互いに距離をおいているかもしれません。でもだんだんにコミュニケーションをとるため、身振り、手振りからはじまって日本語をりかいしていくようになるとおもうし家の子たちも英語を理解できるようになったりするとおもうんです。そうなれば、転校してきたアメリカ人にむかってカワイソウという言葉はでないんじゃないかとおもうんです。
つまり、言葉が障害とはならずに、個性として認められ、共通のコミュニケーションの手段がえられるとおもうんです。其の手段が私たち、障害者は手話であったり、点字であったり音声でおしえてくれるグッズだったりするだけなのです。
ちょっとこの紙面だけでは、うまく私の気持ちがつたわらないかもしれませんが、要は、見えない聞こえないという人にたいして、対等にお互いをあつかってあげればいいし、コミュニケーションの手段がちがったら、ひるまず、あくまでも対等につきあっていってほしいということなのです。
少なくても私はそのように思っておりますので、子供の幼稚園の行事や、学校の行事にも極力でていくようにしてます。逃げようとおもえば、眼がわるいので、、といえば、たいてい無理しなくていいよ。といって、役はまわってきません。
でも、これって、逆差別のような気がしてしかたないのです。そして、つねに、もうしわけない、、といううしろめたさだけがのこって私は、いやなんです。ですから幼稚園のクリスマス会では、何度か練習に通ってミュージックベルをやりましたし3月の謝恩回ではピアノ係りをやります。小学校の読み聞かせのときには朗読にあわせてちょっとした劇をつけるのですがおばあさん役で参加しました。
私がこのようにいろいろやろうとすると少なからず、仲間のお母さんたちにはいろいろ助けてもらっているところはかなりあります。でも参加できていることでは、普通の人より10倍くらいの満足感はあるし、それよりも、なによりも皆さんと対等にいられることに満足でき私のプライドを保てるのです。
私たち視覚障害者が安心して外にでていけるためには、ハード面とソフト面の整備が必要だとおもいます。
ハード面では、一昨年に施行された交通バリアフリー法にもとずいた、道路の整備、信号機の整備や公共施設等の音声ガイドシステムがあげられるとおもいます。また、ソフト面では、雇用の場の拡大またそのための教育手段、福祉施設の充実があげられるとおもいます。
でも、私がここで言いたいことは、おかたい項目についてあれやこれやいいたいわけではなくて、今の自分の眼の状態で、また自分のおかれている環境のなかで、極力、興味のもてるものをみつけて外にでていって、たのしく、いきいきとすごしてほしいということなんです。
私は障害者なんだからなどといって社会の片隅でひっそり生活していちゃいけないとおもうんです。どんどん外にでていって不都合があったら、どんどん声にしてうったえていかなくては、、。そうしないと私たちが快適にすごせる場が確保できないですから。静かにしているとどこも動いてくれないしだんだん福祉予算は整理縮小されるはめになっていくとおもうんです。
そんなこんなで、私には夢があるんです。もうちょっと子供の手がはなれたら、もう一度正規の仕事につきたいのです。そしてしっかり税金をはらって対等に、生きたいとおもうんです。
でもそのためには、もうちょっと私のパソコン技術を上達させないと無理でしょうね、、、ハハハ。
これは、なかなか難しいテーマで私が一番頭をなやませているところです。
一番私の状態、気持ちの動きをりかいしてくれているようで、実は、ぜんぜん的はずれで、すごくうざったくかんじることがたびたびあります。この3年間ぐらいで、私なりに習得したことは、基本的には、今まで同様自分でできることはじぶんでやる。また、福祉制度の範囲で利用できるヘルパーさんの要請は極力利用する。家族への負担を最小限にとどめつつ、何か家族にやってもらったときは、感謝の気持ちを言葉にだして十分すぎるくらいいう。
けっこう、このありがとう、ということばが難しいんです。ガイドさんとか、お友達には、すんなり言える言葉でも身内にはついつい当然と思ってしまうところがあるみたいです。
でも、これはもうしかたないことなので、こだわらずにありがとう、を連発させておきましょう。すると、けっこうスムースに事がはこんでいくように感じます。人間だれでも、ほめられたり、感謝されて、イヤな気持ちにはなりませんものね。しかも、それを口にだすというところがミソなんですよね。
私は素直じゃないから、最初、はかなり感謝を口にすることに抵抗がありました。今でも、ツッパッていて、ありがとうを言うくらいなら、自分だけでやるさ、、と一人ずもうをしていることもまだあります。でもこれもけっこうつかれるのでうまく子供の助けをかりながら、まあなんとか無難にこなしているというところかとおもいます。
どなたか、もっとよい方法をご存知の方是非、おしえてください。
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私、ずっとひっかかっているんですが障害者ということばは、なにか差別をされているようで、いやーな気持ちになりませんか?わたしだけが気にかかることなのでしょうか?
ショウガイという文字も正しくは障碍と書くときいています。でもこのショウガイという響きがどうしても耳ざわりでいやなんです。最近さわがれている狂牛病だって響きがよくないということで、BSEとか言うではありませんか。
ですから、障害者といういいかたもなにかの頭文字でもなんでもいいんです。耳ざわり感のないことばにしてほしいとおもいませんか?もし同意してくださるかたがいれば、署名をつのって、厚生、労働省にでも嘆願しませんか???
そんなことをおもっているきょうこのごろです。
終わり
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午前中は、リハビリテーション概論の講義で埼玉医科大学総合医療センターの助教授の先生が講師として講義をされました。私は、リハビリというのは学生の時にケガで病院のリハビリを受けたことだけですが、今回の内容で、リハビリについて様々な新しい知識を得ることができました。リハビリの歴史や定義、用語などの説明もありましたし、又、障害の重さや種類の説明もありました。ケガや病気で中途障害になった方、生まれつき脳や体のどこかに障害を持っている方など、障害者の障害の内容を確認した上でそれぞれにあったリハビリを行うそうです。そのようなことが心のリハビリにつながると思いました。
午後は、実技でした。東京都障害者総合スポーツセンターの指導員の方が来てくださり、水泳の指導をうけましたた。実際にプールで障害者の方を水の中に入れたり、プールサイドに上げる場合の注意点などを指導してもらいながら、2人1組で実際に行いました。それを指導員にチェックしてもらいました。またそのほかにも、水の中で障害者の恐怖心を取り除く方法、サポートする時のたつ位置、呼吸しやすい姿勢、それぞれの障害者の泳ぎ方や指導の方法、なども教えていただきました。
私達が指導を受けているとき、隣のコースでは手足の無い方や脳性まひ、脊髄損傷で麻痺のある人が指導員にサポートをして貰っていました。1人で25mを何往復もしている人もいました。水の事故は死亡事故につながると言われますが、こんなふうに、指導員と障害者の気持ちが一体感になり恐怖心や恐怖感など見られず一生懸命泳いでる姿を見ていると、障害者の人が水泳をなんてと思っていたのが恥ずかしく思った実技でした。
次は、体育館で知的障害者のスポーツの実技で国立市障害者センターの指導員が指導してくださいました。最初は知的障害者といっても人によって障害が違うのでスポーツをすること自体が目的だそうです。ただし施設や体力も人によって違うので出来るスポーツが限られてしまうそうです。今回は、ルールを変えたバスケットを体験しました。行ってみて、人によって障害が違うのでそれぞれにルールを決め、勝敗よりゲームの中で楽しさを見つけさせるのかなと感じさせられました。又ここで意図する事は、ゲームを通して団体競技の楽しさを体験させ、積極性や協調性を養わせ、運動機脳を高めることを重視した指導だと感じました。
二日目は、スポーツ心理学。講師は東京多摩障害者スポーツセンターの指導員が講義されました。ここでは、障害者の人が、なぜスポーツをするのか又、スポーツに対しての目標は何かが大事だといことを習いました。スポーツをする事での効果を得るためには、指導者は、競技を選ぶ時や競技を行っている時の個々人の心理を把握をしなければなりません、私も今後指導をしていく場合、個人のスポーツに対する考え方や経験などいろいろな分野から話をして個人を把握し競技指導をしていくつもりです。
次の講義は、健康作り。講師は東京家政大学管理栄養士の先生に話しをしていただきました。この講義は、障害者の人だけではなく、健常者の人でスポーツを行っている方の食事のとり方や栄養についての話でした。スポーツ選手や運動の内容によって食事の取り方や栄養のバランス、食べ物の種類などが違うようです。食材には何の栄養素が多く含まれているかそして、日常生活で食事に対してどのくらい考えて生活しているかを学びました。
2日間目最後の講義は、安全管理で講師は、実践女子短期大学の先生が話しをしました。この講義ではスポーツの事故に対して実際に起きた事件や現在裁判中の事故の実態を話しをしていただきました。そのなかで一番の事故は、熱中症でした、これからの時期よく聞かれると思いますがスポーツを行っている時が多く、亡くなっている人いるそうで、熱中症の症状や対応の仕方など経験が無いため処置が遅れてしまうのが現状です。私も、脱水状態で病院に運ばれた事がありまして、苦しかったことを覚えています、この様な事故で民事や刑事裁判になるこがあるので、指導をしていく上で苦しいおもいをさせたくないので、十分注意をして行きたいと思います。特に気をつけなければならないのは、症状や状態を伝えられない子供や障害者に対してで、十分に配慮して勉強して行きたいと思いました。
三日目は、1日中実技でした。最初に、肢体不自由・聴覚障害者スポーツで東京都多摩障害者スポーツセンターの指導員に指導いただきました。体育館での実技ですので何のスポーツを行うのかと思っていたら、隣の学生の2人が肢体不自由な人とはどんな障害なんだろうと、話をしているのが聞こえました。私もそういえばよくわからないと思いました。肢体という言葉は聞いたことがあるけど障害まではわかりませんでした。そんな中で、指導員の、始めに30分ほど肢体不自由について講義をします、の言葉にみなさんうなずいていました。まずは肢体とは・・から始まり代表的な障害とその原因、種類と特徴やそ指導上の注意点など話をしていただきました。
実技では、車いすバスケットを指導して頂きました。最初は車椅子の紹介です。中でも頑丈なものがあり、聞いてみるとそれはラグビーをするときの車椅子だそうでした。練習の時には一番にそのラグビー用の椅子を選びました。
指導については車椅子の乗り方、走り方や止め方また下にあるボールを走りながら拾う方法などのテクニックを教えてもらいました。体育館を全力で回り笛が鳴ったら止まりながら180度や360度回転するという練習もしました。最後に、4チームに別れて試合を行いました。座ったままっでのシュートの難しさを痛感しました。ボールを奪う時に車椅子どうしがぶつかることがあり、集中して真剣に試合に打ち込んでいました。
午後からは、視覚障害の障害者スポーツで東京都多摩障害者スポーツセンターの指導員の方が行いました。私にとってこの実技は、大切な時間なりました。やはりここでは30分程度講義を行い、視覚障害の種類や視力・視野などについての話をされ、またどのようなスポーツがあるのかそしてどのようにして指導するのかの話もありました。立つ位置、声のかけ方、誘導の仕方もことこまかに教えていただきました。実際に2人1組で体育館の中を回るわけですが、いろいろな方法での誘導方法を実践しました。始めに一人がアイマスクを掛け、誘導する人は、左右どちらかについいて歩きながら誘導をします。次は同じように歩きながら誘導しますがこんどは後ろから声をかけての誘導でした。最後に20mをアイマスクをつけて走りますが、ゴールに誘導する人が手をたたきながら誘導しました。この場合は、ほとんどの人が恐怖心で左右にそれてだんだんスピードが遅くなってきて何人かの人はその場で止まってしまいました。私は、速くは走れませんが真っ直ぐに行く事が出来ました。しかし、目の前が真っ黒でなにも見えない恐怖心を体験し、光を失った人の精神,力
や白杖の必要生がわかりました。また、視覚障害者の誘導は神経を集中しなければ指導は出来ないと思いました。
三日目最後の実技はレクリェーション概論で東京都多摩障害者スポーツセンターの指導員に指導していただきました。レクリェーションは、競技スポーツとは方向性がすこし違っていて、教室や行事などで障害者や健常者の人も一緒になって楽しく、和気藹々と遊べるゲームで4種類ほど紹介していただきまして、どれも楽しくゲームに熱中してしまい指導のことを忘れて遊んでしまいました。実技終了後なんとなくほっとした気持ちになってしまいました?
最終日は、午前と午後の半分が障害者福祉の講義で午前中は宝仙学園短期大学の先生に話しをしていただき、午後は、東京都立北養護学校の先生が話しをされました。
午前中は、社会福祉の一般論や障害社手帳の申請の仕方、各都道府県の行政管轄での社会福祉などビデオやスライド中心でした。
午後は、知的障害者の現状についてを先生のお勤めになっている学校での様子を中心に話をしていただきました。まずは、障害者福祉論についてとか障害者とは、という話題から始まり身体障害者、知的障害者とは、や、障害に応じた教育、障害に応じたスポーツなどの話に広がりました。耳にした事はありますが実際ビデオやスライドを見て、現状の教育、学校での生活又、先生の苦労など、生の話を聞いたことは貴重でした。スポーツとは、すこし違いますが指導をして行く上では基本ですしもっと勉強しなければならないと思いました。
今回最期の講義で障害論を国立療養所村山病院、の院長が医者の立場に立って、障害に対して医学的に話をされました。最初は、障害の種類について障害者の多い人の順に病気、けがや合併症の予防など話をされ中でも内蔵障害については細かく教えていただきました。障害者スポーツの医学的管理という話を最後にされ、スポーツをする事による障害等などを体験談を例に教えてくれました。専門用語も出てきましたが、わかりやすく説明して戴いて勉強になりました、やはり競技をする障害者の指導をする場合、オーバートレーニングや起こりえる合併症に注意して行きたいと思います。
以上が講義の内容です。
最後になりましたが、今回の講義を受けての感想を書きます。指導員の資格を取得することよりも、障害者スポーツ自体があまりにもしられていない現状を痛感しました。現状では、障害者がスポーツを行いたいと思ってもいくつかの至難を乗り越えなければなりません。
私は講習中に行政関係や福祉課に連絡をして障害者の人が行うスポーツ(競技)団体や指導員を紹介してくださいと、聞いてみました。その答えは驚いた声で、「聞いたことが無いな」とか、「体育課に聞いてください」という回答でした。それではと体育課に聞けば、「障害者のことは福祉課に聞いてください」と、答えが返ってきました。
結局私が感じたことは、障害者=スポーツにはならないのかということ。又は障害者がスポーツをしたければ自分で行ってくださいと、言っているという事かなー?
しかし、この研修中たくさんの障害者の人を見て来ました。この施設(障害者スポーツセンタ)の中で、一生懸命スポーツに取り組む姿勢や自分を鍛えて努力する姿を見ていると、ハンディキャップという言葉は必要無いと思わせる傾向が見られました。又指導員も厳しい態度で指導に取り組む姿勢は勉強になりました。私のスポーツに対する考えがより一層膨れ上がり、もっと努力をしてすこしでも障害者スポーツに貢献出来るよう頑張って行きたいと思いました。
以上、今回の私の感想です。
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