道口由美子さんの体験記
1.網膜色素変性との出会い
私がこの病気とであったのは、21才の時でもうかれこれ25,26年この病気とつきあっています。それまで、私は、いわゆる近視で眼鏡は学校での授業中だけかけていた程度で、五体満足と自他共におもってました。ところが、私が網膜色素変性症といわれたきっかけは、21才のある夜でした。母と外出からの帰りで、夜8時ごろだったと思います。家の門のカギをあけてはいろうとするのに、私は無意識に手探りをしてカギの場所をさがしていたのです。横にいた母は、一発でわかる明るさがあったのに、、、。其の様子をみた母が、私が夜盲症のようだから、お医者様にみていただいてビタミン剤を処方していただいてくるようにと言われました。そこで、私は次の日軽い気持ちで、かかりつけのお医者様に行ったのです。その医者とは、私の住んでいた地方都市の県庁所在地では結構有名な眼科でした。とにかく、私は夜盲症だと思って言っただけなのに、暗室で眼底をみたり、視野の検査をしたり、今まで、眼科にきても入ったことのない部屋へ連れていかれたりでした。結局最後に先生の診察をうけて、そこで網膜色素変性症といわれました。これが、ドラマだったらきっと衝撃のジャジャジャーんと音楽でなるのでしょうが、、。
ここは単なる診察結果の報告だったようなので、たんたんとこの病気の症状、難病である事、治療法はない事、まれにアダプチノールが効く事など説明されただけでした。。でも先ほどもお話しましたが、難病と急に言われてもピンとこなく、ただ耳障りわるく残った言葉「将来失明するかもしれません」という言葉と、「ご両親は、いとこ同士の結婚じゃありませんか?」「親戚に見えない人いませんか?」という言葉でした。とにかく、そこでは、薬を飲んで定期的に診察を受けるようにいわれ帰宅しました。
家にかえって医者に言われた事を両親に話すと母はただ無言で聞くばかり、父は、とても憤慨して、「そんなはずはない。1件の医者の判断では信じられない」と言って、「順天堂大学出身の医者にみてもらわなくては」、と言って、父の知り合いの医者を紹介してもらって、再度診察をうける事となったのです。私は今でも父がこんなに激怒したのは後にも先にもこれ一回です。もっとも、父は、この1週間後に交通事故にあって即死してしまったのですが、、。ちょっと蛇足でしたね。
そんなこんなで、わたしと網膜色素変性症とはこんな形で出会ったのでした。でも、病名のレッテルははられても明日から急になんの変化がおきたわけではないので、それから、ひたすらこの病気は私たち家族の胸のうちにおさめ、ひたすら平静にとりつくろって20年は隠しとうしてきました。それなりに私自信の中では整理をして見えるうちに行きたい所は行っておこうとか仕事や金銭面での組み立てをたてていたつもりです。なんせ、この病気、ちょっと夜盲を注意して、目をきょろきょろさせていればどうにか普通にこの20年やってこられましたから。30歳から35歳の頃は、眼の調子も自分ではすすんでいるなあとは全然思えなかったし、仕事も順調で、プライベートでもうまくいっていたので。私の病気は実は他の病名で、見えるようになるのでは、、とまで思いました。
どこで診察をうけた時か忘れましたが、40歳位をさかいにすすみますよ。という事を聞いた事があります。そうです。私は30代後半で2回お産をしました。お産をすると進むという話もよく聞きます。そんなこんなで40歳を2,3年す過ぎた頃から、本当の網膜色素変性症とのお付き合いが始まったように思います。
それからの話は 障害者手帳を取得しての所でお話する事とします。
2.私の病気ってどこの病院でも同じみたい
難病、眼の病気と言うとすぐに順天堂、慶応東大と大学病院の名前があがりますが、私はこれに固執する事はないと思います。確かに、大きな病気ですし、専門の先生にみていただいていないと不安というのもあります。でも、網膜色素変性症と診断を受けて、病名を納得したら、そんなに時間かけて遠くまで行くのはちょっと無駄かなあと思います。はっきりいって、この病気日進月歩で治療法がかわるわけでなし、網膜に権ある先生でもそんなにこの病気治療に力が入っているとは思えないからです。もし、お医者さまがこれを読んで誤りがあったら教えてください。今、注目されているのは、遺伝子治療と言われていますが、まだまだ、人間に治療するには、時間がかかりそうですもの。遺伝子治療のなかでもやっぱり、生命にかかわる病気の方が優先されるし研究費もつきますよね。ちょっとひがみかな。そんな事よりも、私がここで言いたいのは、自分が安全で、安心して通院できる病院をもっている事の方が大切なんじゃないかなあっていう事なんです。
私は数年前にここに引越してきたときどこの眼科にしようかなあと、悩みました。至誠会、慈恵、杏林とある中で、至誠会は女の先生なので、ちょっと気持ちが通じるかなあと思ったのです。ところがこれは失敗でした。女の先生とかいう前に、病気の内容に対するデリカシーが全然なく私の心はずたずたにされました。
私は、さっさと紹介状を書いてもらって、次に通院しやすい杏林にきました。最初の主治医の先生は、かなり事務的な対応でちょっと不満はあったものの、至誠会の先生よりはましかなあと思っていました。ところが、この先生がアメリカに留学してしまったのですが、其の時、私を継ぎの先生に引き継いでくれませんでした。これには、かなり、ショックをうけたのですが、もう他の病院に行ってもだいたいこんな扱いをされる病気なんだと思い半ばあきらめて、フリーで今の先生に診察していただいたのです。
ところが今度の先生は、とてもハートのある先生でした。別に今までの先生と診察方法が違うわけではないのです。でも、ちょっとした、配慮がみられて、とても嬉しくなりました。ちょうど見えなくなってくる事にとても不安を感じてきて、何かにすがりたい気持ちでしたので、地獄で仏にあったようなものでした。ロービジョンの存在を教えてくれたのも、この先生でした。
蛇足ですが、最近は診察の時常にロービジョンはどうですか?とふるんです。
3.ロービジョンルームとの出会い
そんなわけで、私が見えなくなる事への不安にカウンセリングを求めた時に紹介されたのが、なぜか、このロービジョンルームでした。ここは、心のケアーというよりか、物理的にこんなもの、拡大読書器を使うと新聞が読めるよ。とか、こんな色の遮光レンズがあるよ。とか拡大鏡の紹介でした。でも、私にとって見る物全てが始めての体験で、へえー、こんなものがあるんだあ。とただただ、感心して帰ってきた記憶があります。
でも、このとき、嬉しかったのは、医者と患者の上下関係の診察時間の他に、心を開いて会話できるスペースを知った事でした。それから、頻繁にロービジョンの部屋におしかけて、いろいろな情報を教えていただきました。パソコンの事、お料理関係のレシピ、便利グッズ、白杖指導、お化粧講習会、お料理講習会などなど、私がこんな事したいと投げかけると、すぐに反応してくれて嬉しかったです。そして、与えられるだけでなく室長の田中さんと西脇さんと互いに助け合ってきたような気がします。ちょっと偉そうですね。失礼。
あそうそう、今まで同じ病気の人は、3000人から4000人に一人の割合で存在する事は知っていましたが具体的にこの人といって会った事はここで初めてでした。後の項目で私が調布の福祉センターに出入りするきっかけとなった同じ病気の同年代の方を紹介していただいたのもこのロービジョンです。今日、こんなに私がアクテイブに活動できているのもこの人との出会いがあったからです。
もっとロービジョンの活動内容は、きっと他のところで詳しく紹介があると思われますので、そちらで確認ください。
4.パソコンを知ってからの私(サブタイトル:なかなか使いこなせない私)
私が、視覚障害者用のパソコンを知ったのも、ロービジョンに出入りしてまもない頃でした。
ある時、田中さんが私にこれからは、パソコンの時代ですよと言うんです。でも其の話を聞いた時は、数年前で、ウィンドウズ95が出てきた頃でした。少しずつ家庭にパソコンが普及してきたものの、まだこの話にはのり気ではありませんでした。なぜなら、そのころ、家には1台パソコンはありましたが、やたら場所をとって、邪魔なものとしか思っていなかったからです。第一、キーボードの文字も見えないし、またこれから新しい事を覚えるのもめんどうと思ったからです。でも、そういう思いの私を横目に田中さんは、パソコンをカチャカチャと操作してほら、こうやると新聞だって読めるし、こうやると、メールといってお友達と手紙のやりとりができるのよー。と教えてくれました。
でも、どうやってこれを動かすのかさっぱり見当もつかずただただ眺めていると田中さんは、やつぎばやに、これは特別のソフトが入っていて音声で、画面を読んでくれるし、キーボードの文字も教えてくれるんですよ。と説明してくれました。こうやると画面の文字も拡大できるし、画面の背景の色も見やすくできるのよ。とデモンストレーションしてくれました。私は、後から後から変化していく画面をみて、おうう、これはすばらしい。と感動した覚えがあります。そこで、田中さんは、つかさず、私に1台のノートパソコンをかしてくれたのです。とにかくお家で、触ってみてください、といって。
さて家に持ち帰ってみたものの、壊してはいけないという気持ちが先にたってしばらくバックにいれたまましまっておきました。1か月がすぎた頃、そろそろロービジョンに行く日が近づき恐る恐るパソコンを出して触ってみました。すると、案の定パソコンはすぐ動かなくなってしまったのです。ここからが、私とパソコンの二人三脚の始まりになったのです。
それから私は、やっぱり自分のパソコンを持たないと心置きなく触れないと思い買いもとめました。そして、週1ノペースでロービジョンへ通い、いろいろ教えていただきました。そこでは、かなり知識は得たのですが、やっぱり、私の能力ではうまく使いこなせるようにはなりませんでした。いろいろ考えた末やっぱり個人指導が必要だなあと感じ良心的なパソコンの先生を紹介してもらって半年くらい通いました。
現在では、まがりなりにも、メールのやりとりをしインターネットで情報検索をし、新聞も読み、テレビのお料理番組をパソコンで動画でみたり、ネットショッピングを眺めたりとできるようになりました。
今思う事は、あの時無理してでもパソコン買ってよかったなあっていうことです。こんなに生活の中にパソコンが入り込むとは思っていませんでしたから。
あそうそう、私が、こんなにアクティブになれたのは、パソコンでの情報特にメーリングリストの存在です。詳しいメーリングリストについては田中さんに答えていただくとして、私はこのメーリングリストからいろいろな情報だけでなく、パワーをもらいました。そして、いきいきと前向きに生活していくカテになっているのも事実なのです。
5.障害者手帳は取得したものの
私は、現在2級の障害者手帳を持っていますが、これを取得したのは、3年半前の事です。とにかく、これが生まれて初めてだったので、手帳を手にして嬉しいという気持ちはなくただただとまどうばかりでした。
市役所の障害福祉課の窓口で手帳をいただく時にいろいろ利用できる制度の説明を聞きながら、心の中でこれは必要ないとか、とにかく聞いておこうという気持ちだけでした。最後にその係りの人から白杖を持って行きますか?と言われた時は、声をあらだてて、そんなもの今日はいりません。といって帰ってきた覚えがあります。まだそのころは、一人でどうにか動けましたから。
そんなわけで、この手帳を必要としたのは、遮光眼鏡を購入する時だけでした。ガイドヘルパーさんの利用も二の足を踏んでいる状態でした。タクシー券も病院以外は使えませんでした。そんな期間が1年くらい続いて最近ですよ。やっと自分のニーズでガイドさんを利用したり、バスに乗るとき手帳の提示して半額でのるようになったのは、、。
それには、この間に、私の視力がコンスタントに落ちてガイドさんがいないとうまく動けない状態になってきたという理由もありますが。でも人間は、自分で納得するまではなかなかふんぎりはつきませんよね。
そうそう私が福祉センターに出入りするようになってだいぶ気持ちの整理ができてきたと思います。そこには、私より少しだけ早くいろいろ経験して、乗り越えてきた人たちがいましたから。其の人たちと話をする事で、かなり明るくなれましたし、自分の価値観の再認識の場にもなったような気がします。
6.やっぱり白杖はなるべく持ちたくないなあ
そんなわけで、手帳をいただくときも、白杖を拒否した私ですから、。今現在何処にでも白杖ですいすいというわけではありません。でも、白杖は、自分を守ってくれる事、自分の道先案内人になってくれるもので、とても重要なものだと思っています。ですから、田中さんの所で、都盲協(東京都盲人福祉協会)の人から指導をうけました。また都身障(東京都身体障害者福祉センター)の人にも歩行訓練をうけました。従って、一応使い方はわかっているつもりです。でもギリギリの危険を感じる所でないと白杖は出せません。つまり、一人で電車に乗って出かける時ぐらいです。どうしても家の周り半径200メートルくらいは白杖はだせませんね。ハハハ
じゃあどうやって歩いているのか?という疑問がでると思うんですが、ガイドさんがいない時は、私の子供がガイド役なんです。結構年長の下の子でもきちんと教えてくれて安心なんです。でもいつまでもこんなやり方だけでは無理がくる時があると思うので、徐々にに単独歩行を取得しなければいけないですよね。。
悪あがきに聞こえるかもしれませんが、どうしてもなるべく白杖を使わないで、どんどん外に出て行きたい気持ちがあるもので、国土交通省が中心になって開発しているITS歩行者誘導システムプロジェクトの勉強会に参加してます。
2,3年後には白杖だけでなくハイテクの子機を持って歩けば、目的地までスイスイというのも夢じゃないかも、、、。
7.調布の福祉センターに出入りするようになったきっかけ
ロービジョンとの出会いのところでもちょっとお話させていただきましたが私が始めて同じ病の仲間の紹介を希望したときにたまたまであったのがこれからお話する人です。
彼女は私と年齢もちかく同じ町に住む人です。障害の程度は私よりもすすんでいて確か、1級だったとおもうんですが。彼女は、とても上手に福祉制度を勉強し、利用して全然不自由さを感じさせない人なのです。とても明るくふるまい、前向きなひとで私がちょっとこまったことがあって、こんなときにはどうしてますか?とたずねるとていねいに時間をかけておしえてくれたものでした。ある時、福祉センターでこんなことをしているので、遊びにきてみてね。とさそわれました。当時、彼女は、生活支援事業というところに所属し生活相談員として、いろいろなことをいっきにひきうけてやっていました。視覚だけでなく聴覚、肢体不自由内部障害、高次機能障害と障害をこえた仲間と共にいきていくための活動でした。私はとてもおもしろそうだなあという印象をうけた記憶があります。そうこうするうちに、私もここに首をつっこんてしまったというわけなのです。
現在私は生活支援事業の当事者相談員などという名前をもらって非常勤パートのような位置づけで参加してます。ちなみに今年度の私が担当した活動内容はというと、
- 中途視覚障害者講習会
- 歩行訓練
- 白杖を正しくつかって外を歩く、とか室内の安全な移動の仕方とかガイドヘルパーさんと歩くときのポイントなど
- お料理講習会
- 電子レンジをつかって安全に簡単にお料理を作るとか、使いやすい便利な調理器具、電気製品などの紹介
- バスツアー
- 日本点字図書館、水道橋にあるセントラルプラザへの訪問
私は企画、運営を担当しました。参加者は市報でつのります。講師はそれぞれ専門の方をおよびしてます。
あれあれ、このネタどこかできいたことありませんか?そうなんです。ロービジョンルームでおそわってきたものばかりなんです。でも、いいかえれば、私がこの間必要としてきた情報ですし、私はたまたま杏林大学のロービジョンを利用できたからラッキーであっただけで、地域のなかでは、なかなか知る手段がなく苦労している人がおおいだろうなあー
と、おもうんです。ロービジョンは基本的には杏林にかかっている患者さんが対象ですものね。そうなると、私が地域に普及するっきゃないとおもったのですが。田中さん。まちがっていませんよね。もしまずいようでしたらコメントください。
でも、手前みそでもうしわけないのですが、参加してくれた人にはとても好評で、リクエストがはいってしまったんです。急遽2月にお料理講習会パート2を開催することになってしまったんです。
この他にも上手にホームヘルプサービスを受けるには、とか利用できる制度の紹介など、の企画をしました。でも、まだまだ、私は当事者としての興味の範囲をぬけでていませんが、かえって、この新鮮さって必要だと信じています。
8.わたし流の子育て
先日、上の子(小3)が学校から帰ってきて今日は手話ダンスをおそわったよ、といって得意げに覚えたての小さな世界をうたいながらおどってくれました。
そして、私にもこうやってやるんだよと手をとっておしえてくれるんです。こうやれば、ママも耳の不自由な人ともはなせるでしょう、、。といって、、。でも、私は、心の中では眼がみえないんだから相手からの手話がよみとれないじゃないか、と思いつつもちょっとほほえましく暖かい気持ちになっていました。
ところが、上の子がなにげにやっぱり耳が不自由だとカワイソウだよね、、。というんです。私はすっかりあたたかいきもちになっていたのに、この言葉でいっきにさめてしまいました。わが子にしてもかわいそうという言葉がはじめにでるんですもの、、。ショック
私は間髪をいれずにじゃあママもかわいそうなんだね。と聞くと、上の子はなんのとりつくろいもなくママはカワイソウではないというんです。実際、わが子は私がみえないことで大変だなあとは切実にかんじてます。でも、あまりにもみじかすぎてカワイソウなんてあわれんでいる暇はないので、ママはかわいそうじゃないというのは、本音だとおもいます。
カワイソウということばにこんなにもわたしが敏感になるにわ理由があるんです。つまりカワイソウということは、つまり相手を一段聞こえない、見えないということでみさげていることになるからです。だって、本人は、聞こえない、見えないことで大変だし苦労しているのは事実だけれど、けっしてカワイソウなんていってあわれんでほしくないからです。
ここでちょっと見方をかえてみますね。
たとえば、上の子のクラスに英語しかしゃべれないアメリカ人が転校してきたとします。
きっと最初は、お互いに距離をおいているかもしれません。でもだんだんにコミュニケーションをとるため、身振り、手振りからはじまって日本語をりかいしていくようになるとおもうし家の子たちも英語を理解できるようになったりするとおもうんです。そうなれば、転校してきたアメリカ人にむかってカワイソウという言葉はでないんじゃないかとおもうんです。
つまり、言葉が障害とはならずに、個性として認められ、共通のコミュニケーションの手段がえられるとおもうんです。其の手段が私たち、障害者は手話であったり、点字であったり音声でおしえてくれるグッズだったりするだけなのです。
ちょっとこの紙面だけでは、うまく私の気持ちがつたわらないかもしれませんが、要は、見えない聞こえないという人にたいして、対等にお互いをあつかってあげればいいし、コミュニケーションの手段がちがったら、ひるまず、あくまでも対等につきあっていってほしいということなのです。
少なくても私はそのように思っておりますので、子供の幼稚園の行事や、学校の行事にも極力でていくようにしてます。逃げようとおもえば、眼がわるいので、、といえば、たいてい無理しなくていいよ。といって、役はまわってきません。
でも、これって、逆差別のような気がしてしかたないのです。そして、つねに、もうしわけない、、といううしろめたさだけがのこって私は、いやなんです。ですから幼稚園のクリスマス会では、何度か練習に通ってミュージックベルをやりましたし3月の謝恩回ではピアノ係りをやります。小学校の読み聞かせのときには朗読にあわせてちょっとした劇をつけるのですがおばあさん役で参加しました。
私がこのようにいろいろやろうとすると少なからず、仲間のお母さんたちにはいろいろ助けてもらっているところはかなりあります。でも参加できていることでは、普通の人より10倍くらいの満足感はあるし、それよりも、なによりも皆さんと対等にいられることに満足でき私のプライドを保てるのです。
9.これからも外にでていくために
私たち視覚障害者が安心して外にでていけるためには、ハード面とソフト面の整備が必要だとおもいます。
ハード面では、一昨年に施行された交通バリアフリー法にもとずいた、道路の整備、信号機の整備や公共施設等の音声ガイドシステムがあげられるとおもいます。また、ソフト面では、雇用の場の拡大またそのための教育手段、福祉施設の充実があげられるとおもいます。
でも、私がここで言いたいことは、おかたい項目についてあれやこれやいいたいわけではなくて、今の自分の眼の状態で、また自分のおかれている環境のなかで、極力、興味のもてるものをみつけて外にでていって、たのしく、いきいきとすごしてほしいということなんです。
私は障害者なんだからなどといって社会の片隅でひっそり生活していちゃいけないとおもうんです。どんどん外にでていって不都合があったら、どんどん声にしてうったえていかなくては、、。そうしないと私たちが快適にすごせる場が確保できないですから。静かにしているとどこも動いてくれないしだんだん福祉予算は整理縮小されるはめになっていくとおもうんです。
そんなこんなで、私には夢があるんです。もうちょっと子供の手がはなれたら、もう一度正規の仕事につきたいのです。そしてしっかり税金をはらって対等に、生きたいとおもうんです。
でもそのためには、もうちょっと私のパソコン技術を上達させないと無理でしょうね、、、ハハハ。
10.家族の協力、理解について
これは、なかなか難しいテーマで私が一番頭をなやませているところです。
一番私の状態、気持ちの動きをりかいしてくれているようで、実は、ぜんぜん的はずれで、すごくうざったくかんじることがたびたびあります。この3年間ぐらいで、私なりに習得したことは、基本的には、今まで同様自分でできることはじぶんでやる。また、福祉制度の範囲で利用できるヘルパーさんの要請は極力利用する。家族への負担を最小限にとどめつつ、何か家族にやってもらったときは、感謝の気持ちを言葉にだして十分すぎるくらいいう。
けっこう、このありがとう、ということばが難しいんです。ガイドさんとか、お友達には、すんなり言える言葉でも身内にはついつい当然と思ってしまうところがあるみたいです。
でも、これはもうしかたないことなので、こだわらずにありがとう、を連発させておきましょう。すると、けっこうスムースに事がはこんでいくように感じます。人間だれでも、ほめられたり、感謝されて、イヤな気持ちにはなりませんものね。しかも、それを口にだすというところがミソなんですよね。
私は素直じゃないから、最初、はかなり感謝を口にすることに抵抗がありました。今でも、ツッパッていて、ありがとうを言うくらいなら、自分だけでやるさ、、と一人ずもうをしていることもまだあります。でもこれもけっこうつかれるのでうまく子供の助けをかりながら、まあなんとか無難にこなしているというところかとおもいます。
どなたか、もっとよい方法をご存知の方是非、おしえてください。
11.終わりに(おまけ)
私、ずっとひっかかっているんですが障害者ということばは、なにか差別をされているようで、いやーな気持ちになりませんか?わたしだけが気にかかることなのでしょうか?
ショウガイという文字も正しくは障碍と書くときいています。でもこのショウガイという響きがどうしても耳ざわりでいやなんです。最近さわがれている狂牛病だって響きがよくないということで、BSEとか言うではありませんか。
ですから、障害者といういいかたもなにかの頭文字でもなんでもいいんです。耳ざわり感のないことばにしてほしいとおもいませんか?もし同意してくださるかたがいれば、署名をつのって、厚生、労働省にでも嘆願しませんか???
そんなことをおもっているきょうこのごろです。
終わり
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